民族文化

日本文化と苗族文化との比較

2021-02-18


――日本文化起源に関する考察

1994年6月



指導教官:吉岡 幹浩

筆  者:姚 武強 



初めに


 アジア大陸東端の海上に日本列島の骨格が形成されたのは、今からおよそ5,000万年前のことである。これは地質学上では、新生代第三紀にあたります。この時期の初期ごろから、日本列島が陸地として姿を現すための地殻変動が活発になっていきました。


ただし、当初から現在のような列島の形をしていたわけではなく、アジア大陸と地続きの半島状の地形であったと考えられています。


その後、およそ1,000万年前になると、半島状であった日本の地盤が徐々に沈降し、陸地の面積は現在よりもずっと小さくなりました。ところが約100万年前、人類が活動を始めたころには海面が下がり、日本の陸地は再び拡大。アジア大陸だけでなく、フィリピンやジャワ島とも地続きになったとされています。


やがて洪積世(更新世)の末期になると、アジア大陸の東側にある陸地が再び沈降を始め、朝鮮海峡や津軽海峡が形成されました。その結果、日本は大陸から完全に切り離され、現在のような列島の形に至ったのです。


日本列島の骨組みが形成された約5,000万年前、そこはまだ無人の島でした。では、その無人島に人が住むようになったのは、いったいいつ頃のことだったのでしょうか。そして、日本人の祖先は、どこからやって来たのでしょうか。


この問いに対して、日本には独自の文化起源論があります。それは「日本民俗学の父」とも称される柳田国男氏が、晩年の著作『海上の道』(昭和三十六年)において提唱した仮説です。その主張の概要は次のようなものです。


1、子安貝の存在と人々の移動

古代の人々にとって、子安貝(コヤスガイ)は「宝の貝」として尊ばれ、信仰的な意味をもっていました。この子安貝が豊富に採れたのが、沖縄近海をはじめとする南方の海域でした。


2、子安貝を求める人々の移住
この貝の存在を偶然知った人々は、やがてそれを目的に移動するようになり、中国大陸の揚子江以南、つまり江南地方から、家族単位で海を渡って日本列島にやって来たと考えられます。


3、稲作文化とともに北上
移住してきた人々は稲作の技術を持ち、イネの栽培に適した土地を求めて、沖縄や奄美などの島々を経由しながら北上し、最終的に南九州に到達。そこから日本列島各地へと稲作文化が広がっていった、というのが柳田氏の主張です。




苗族の伝承と文化的背景


 中国揚子江以南の江南地方は、古代中国において「蛮」と呼ばれた部族が暮らしていた地域であり、彼らは現在の中国におけるさまざまな少数民族の祖先とされています。


 苗族(ミャオゾク)の歴史は、およそ三千年から五千年に及ぶと伝えられていますが、彼らには独自の文字がなかったため、自らの歴史を記録した苗族の文献は殆ど残されていません。その代わり、数多くの歌や昔話が口承文芸として、親から子へ、子から孫へと語り継がれてきました。また、巫師(シャーマン)が儀式の中で唱える呪詞「巫詞」も、苗族の来歴を表現したものとされています。


こうした古代からの伝承は総称して「古歌」と呼ばれています。たとえば「踄山渉水(ほくざんしょうすい)」という古歌には、苗族の祖先がかつては現在よりはるか東方の地に住んでいたこと、そしてより良い暮らしを求めて西へ西へと移動してきた様子が語られています。


また、儒教の五経の一つである『書経』の「舜典」に登場する「三苗」は、苗族の祖先を指しているのではないかと考える歴史家もいます。当時の「三苗」は、揚子江中流域に居住していたとされ、漢民族の祖先である「華夏族」とたびたび争いを繰り返しました。


後漢時代には、苗族の祖先がすでに湖南西部から貴州東部にかけて居住しており、この地域は当時「五渓」と呼ばれていました。ここに住む苗族を含む少数民族は「五渓蛮」あるいは「武陵蛮」と称されていました。


彼らはその後さらに西へと移動し、現在の苗族の分布につながっていきます。このような西方への移動の歴史は、苗族の古歌にも反映されています。


「五渓蛮」の一部は、烏江に沿って現在の貴州西北部および四川南部へと移動し、また別の一部は四川東部や湖北西部へと進出しました。さらに、9世紀には一部が捕虜として雲南へ送られ、6世紀には徴用により海南島へ移されたと伝えられています。


これらは比較的大規模な移動でしたが、それとは別に、小規模な集団による移動も絶え間なく行われ、苗族は四方に分散しながら、現在のような分布に至ったのです。


苗族は、漢民族とは言語や生活習慣において異なる民族であり、かつては湖南・湖北・江南一帯に広く居住していたとされています。しかし、漢民族の圧力により西南地域へと移動し、現在では主に貴州や雲南、さらにはタイやラオス、ベトナムなどにも居住しています。


彼らの伝承によれば、苗族はかつて揚子江の中流域で水稲耕作を営んでいたとされ、民族としての故郷は東方にあると信じられています。


もしこの伝承が事実であるならば、日本への稲作伝来において「江南から渡来した」という説との関連も見えてくる。つまり、漢民族の南下に伴って民族移動が起こった時代に、南中国から日本へ渡ってきた人々の中には、苗族の文化的要素を受け継いだ人々が含まれていた可能性も考えられる。


本稿では、こうした仮説に基づき、具体的な事例をいくつか挙げながら、日本文化と苗族文化との比較を試みたい。




神話と伝承


 はじめに、日本と苗族に伝わる神話や伝承を比較してみたい。両者には共通するモチーフや構造が見られ、文化的背景の違いを超えた興味深い類似性が存在している。




日本神話における死と再生の神話


 日本神話、とくに『古事記』や『日本書紀』には、「死体化生型」と呼ばれる作物起源神話が複数存在する。これは、神の死体からさまざまな農作物が生まれるという神話形式であり、農耕文化における命の循環や再生の概念を象徴的に語っている。



1、 『古事記』におけるオオゲツヒメの神話


スサノオは、高天原を追放されたのち、地上に降り立ち、食物の神・オオゲツヒメに食べ物を求めた。すると彼女は、鼻・口・尻などの身体の各所から食べ物を取り出し、それを供えた。これを「不浄」と見たスサノオは怒ってオオゲツヒメを殺してしまう。しかし、その死体からは蚕(頭部)、稲(両目)、粟(耳)、小豆(鼻)、麦(陰部)、大豆(尻)といった作物が生まれ、それらは神によって採取され、種とされた。



2、 『日本書紀』におけるウケモチノカミの神話


『日本書紀』の「一書第十二」には、ツクヨミノミコトが地上のウケモチノカミを視察した際の神話が描かれている。ウケモチノカミは、口から米や海産物、獣肉を出してツクヨミノミコトをもてなしたが、それを「穢れ」と見たツクヨミノミコトは剣で彼女を斬り殺す。その死体からは、牛・馬・粟・蚕・稗・稲・麦・大豆・小豆が生まれたとされる。



3、 ワカムスビノカミの神話


また、「一書第二」では、火の神を産んで死んだイザナミノミコトの死後、彼女の子であるワカムスビノカミもまた死に、その亡骸から蚕や五穀が生まれたと記されている。これは、死という終焉の中から新たな命や恵みがもたらされるという、日本神話に繰り返し見られる象徴的なモチーフの一例である。


これらの神話は、死を起点とした再生の物語であり、食や農耕、自然の恵みの神聖性を物語っている。さらに、神の身体から作物が生まれるという発想には、「穢れ」と「神聖」が混在する日本的な死生観も読み取れる。




日本神話における国生み神話


さらに、『古事記』には、国土創造をめぐる壮大な神話が描かれている。


兄妹であるイザナキとイザナミの二柱の神は、「天の沼矛(あめのぬぼこ)」で海をかき混ぜ、そこから最初の島・オノコロ島を創造する。そして、その島に降り立った二神は「天の御柱(あめのみはしら)」を建て、その柱の周囲をそれぞれが回り、出会ったところで言葉を交わすという結婚の儀礼を行い、日本列島の島々――いわゆる「大八洲国(おおやしまのくに)」――を次々に生み出していく。だが、最初の儀式では作法を誤ったため、不具の子(水蛭子)が生まれ、葦の船に乗せて流してしまう。これは「生み損ない」の神話的モチーフの典型である。


その後、二神は正しい作法で再び婚姻し、日本列島を完成させる。さらに、風・海・家・火などの自然や生活に関わる神々を次々と生み出していくが、火の神を出産した際、イザナミは火傷によって命を落とす。この際にも、彼女の体から多くの神々が誕生し、死と創造の連続性が強調されている。




苗族神話における創世伝説


 一方、苗族にも独自の創世神話があり、日本神話との類似性が認められる。



1、 伏羲・女媧の兄妹婚説話


 苗族に伝わる代表的な神話のひとつに、「伏羲(フーシー)と女媧(ニューワー)」の兄妹による創世譚がある。大洪水により人類が滅亡し、生き残ったのはこの兄妹だけだった。彼らは竹籠に入って洪水をしのぎ、世界に二人きりで取り残される。兄は「人類を絶やさぬために、夫婦になろう」と妹に提案するが、妹は「では、競争しましょう。あなたが私に追いつくことができたら結婚します」と条件を出す。


兄は亀の助言によって逆回りをし、ついに妹に追いつく。天に結婚の許可を求めたところ、臼の上下がぴったり重なるという「天意」が示され、兄妹は夫婦となる。だが、最初に生まれた子は手足のない肉塊で、兄はその姿に失望し刀でそれを切り刻むと、断片のひとつひとつが男の子として生まれ変わったという。


この神話には、「兄妹婚」「天意による婚姻の正当化」「異形の子の出産とその再生」といった構造が含まれており、日本神話の国生み神話との共通性が見られる。



2、 「蝴蝶媽媽」伝説


 苗族にはさらに、「蝴蝶媽媽(フーディエ・マーマー)」という生命の母神にまつわる伝承もある。蝴蝶媽媽は楓香樹(フウコウジュ)の木から生まれ、半神半人の烏博(ウーボー)と結ばれ、12個の卵を産んだ。卵はそれぞれ異なる性質を持ち、そのうち黄卵から人類の祖「央(ヤン)」が誕生したとされる。


また別の伝承によれば、一本の大きな楓香樹から「榜相(バンシャン)」と「留相(リウシャン)」という二人の女性が生まれ、彼女たちが産んだ16個の卵のうち、6個からは人間が、5個からは動物が、4個からは雷神が、そして残る1個には鬼が宿っていたという。この神話では、最終的に人間の代表である「姜央(ジャンヤン)」が雷公(雷神)と戦い、これに勝利することで苗族の始祖となったと語られている。



共通する神話構造と象徴


以上のように、日本神話と苗族神話には、「兄妹婚」「異形の子」「死体からの再生」といった神話的モチーフが共通して見られる。


なかでも注目すべきは、両者に共通する「不完全な出産(異形の子や肉塊)」というモチーフであり、そこから新たな命が再生されるという構造である。これは、単なる創世神話にとどまらず、「過ちを経た正しさ」「混沌からの秩序」「死からの再生」といった深い象徴性を帯びている。


両文化の神話は、それぞれ異なる歴史的背景や世界観に根ざしているとはいえ、人類共通の想像力や生命観において重なる部分も多い。こうした神話比較を通じて、異なる文化のあいだに潜む精神的な共鳴に気づくことができるだろう。




歌垣


 神話や昔話だけでなく、苗族文化と日本文化には、習俗や儀礼の面においても類似点は少なくはない。その代表的な例の一つが、「歌垣(うたがき)」と呼ばれる慣習である。


日本では『風土記』にその記録が多く残されており、たとえば摂津の歌垣山、肥前の杵島岳、出雲の前原崎など、各地の名所が歌垣の場として登場する。中でも特に有名なのが、常陸(現在の茨城県)の筑波山と、肥前(現在の佐賀県)の杵島岳である。8世紀の文献『常陸風土記』および『肥前風土記』には、それらの風習の概要が記されている。


それによれば、春と秋の年2回、地元の人々のみならず遠方からも多くの人々が山に集い、ご馳走を持ち寄って飲食を共にし、歌や踊りを楽しみながら一日を過ごす。その中で若い男女は歌や舞のやり取りを通じて気に入った相手を見つけ、日が暮れると手を取り合って林の中へと姿を消し、一夜を共にするという。


このとき、男が女に贈り物をするのが習わしであり、それが将来の約束の証とされた。贈り物を受け取らずに帰ってきた娘は、一人前の女性として認められない――というのが、その土地に伝わる言い伝えであった。

こうしたことから、歌垣が未婚の男女にとって配偶者を見つける貴重な機会であったことは確かである。


しかし、『万葉集』巻第九・一七五九番に詠まれた嬥歌(かがい)会の歌(※嬥歌とは、歌垣を指す東国方言)によれば、既婚者の男女もこの行事に参加していたことがうかがえる。

すなわち、歌垣は単なる婚姻相手探しの場にとどまらず、より広い社会的・文化的意味をもつ行事であったと考えられる。


こうした点から、歌垣は未婚・既婚を問わず誰もが参加できる性的な解放の場であると同時に、農作物の豊穣を祈願する呪術的な性格も本質的に備えていたと推察される。


このような歌垣の慣行は、古代の文献に記録されているだけでなく、各地に残る民俗行事の中にもその痕跡を色濃くとどめている。

たとえば、四国山地の脊梁部に近い土佐と阿波の国境に位置する高知県大豊町の柴折薬師堂では、旧暦7月6日に行われる例祭において、歌垣的な行事が近年まで継承されていたようである。


折口信夫博士は、『俳諧の発生――農村におけるかけあい歌』という論文の冒頭において、高知県大豊町の柴折薬師堂における行事に言及し、次のように述べている。


「ここでは年に一度、日を定めて両側の麓の村々から、男女の集団が登ってきて、一夜を御堂に籠って過ごすということがある。

ふだんは顔を合わせることもない、まったく見知らぬ土地の男女の間で一夜をともにすることが行われており、これは昔から言い伝えられてきた歌垣、すなわち嬥歌会を思わせるものである。

このような例は他の地域にも多く見られるが、ここの行事には、ただ一夜の妻を選ぶというだけでなく、より古い歌垣の姿が残されている。

つまり、昔から定まった文句があり、それを男女に分かれて掛け合うという儀礼が、今なお行われているのである。」


この記述からもうかがえるように、歌垣の本質は単なる男女の出会いの場にとどまらず、儀礼的な言語行為としての「歌の掛け合い」そのものにあったと考えられる。

こうした口頭詩的なやり取りの中にこそ、古代の人々が歌に託した共同体的・呪術的な意味が深く刻まれていたのであろう。


 一方、苗族の若い男女は、節日(まつり)や「趕場(ガンバ)」と呼ばれる市、あるいは村境の広場「遊方坪(ユーファンピン)」など、さまざまな場で出会いの機会を持ち、歌を掛け合って相手を探す風習がある。初めは数人ずつのグループでの交流から始まり、歌を通じて理解を深めるうちに、しだいに特定の相手との関係が生まれ、「定情(ティンチン)」と呼ばれる恋愛関係へと発展していく。


さらに、歌を通じて互いの愛情を確かめ合い、結婚の意思を共有する段階も、「定情」の過程に含まれる。

この「定情」から「定婚(ティンフン)」へと進むまでの過程は、あくまでも若い二人の間における私的な関係にとどまるが、両者の意志が一致した時点で、その関係は次第に個人間の問題を超えて、家と家との関係、さらには同族集団、ひいては村全体に関わる社会的な問題へと発展していくことになる。


通常、苗族の若者たちは互いに自由な意思で相手を選び、双方の親の同意を得たうえで結婚に至る。このような結婚形式は「老人開親(ロウレンカイチン)」と呼ばれ、当人同士だけでなく、両家の年長者同士が正式な婚姻関係を取り結ぶことに関与する点が特徴である。つまり、結婚は家族同士の合意と調整を経て成立する、伝統的かつ社会的に認められたかたちである。

しかし一方で、親の同意が得られなかった場合、当人同士が示し合わせて駆け落ちのようなかたちで結婚する「自由結婚」を選ぶこともある。


また、苗族の間では、収穫が終わった後に村全体で行われる「遊方(ユーファン)」という、歌垣に似た行事も存在する。若い男女は村はずれの林や丘にある人目につかない場所に集まり、向かい合って相聞歌を掛け合う。そして、お互いに気に入った相手を見つけると、二人きりで歌を交わしながら、指輪やかんざし、美しく刺繍された布「花帯(ホアタイ)」などを、約束のしるしとして手渡すのが習わしである。


このような歌垣的な行事は、祭りの時に限らず、苗族の正月や蘆笙(ろしょう)祭の日、さらには農閑期の夜など、さまざまな場面で行われており、男女の出会いや交流の場として重要な役割を果たしている。


「歌垣(歌掛け・嬥歌会・相聞歌)」は、一つの文化として確固たる意味を持っており、日本や苗族社会だけでなく、中国西南部の他の少数民族や、東南アジアのマレーシア、インドネシア、ネパールなどにも類似の慣習が見られる。

歌垣は、共同作業の発展とともに形成された文化であり、焼畑や水稲農耕を基盤とする地域に根づいたものである。




葬儀


日本の葬送儀礼


 日本では、人が亡くなることを「永眠」と表現する。臨終の際には、医師や神職が「ご臨終です」と告げると、家族や近親者は死者に「末期の水(まつごのみず)」を含ませる。これは、新しい筆の穂や、脱脂綿を糸で巻きつけた割り箸の先などを用いて、唇を湿らせる儀式で、配偶者、長子、次子といった血縁者から順に行われる。


かつては「湯灌(ゆかん)」と呼ばれる風習があり、死者の身体を清めるために、たらいに張った水にお湯を注ぎ入れて、遺体を丁寧に洗い清めるのが通例であった。通常、湯を使う際は熱湯を水で薄めて適温にするが、湯灌ではその逆に、水に湯を注ぐという手順がとられる。このため、湯灌に使う湯は「逆さ水(さかさみず)」と呼ばれ、生者の日常とは異なる、死者を送るための特別な作法として大切にされてきた。


湯灌が終わると、葬儀が執り行われるまでのあいだ、まず「枕飾り」が施される。「枕飾り」という言葉は、もともと葬儀屋の登場に伴って定着したもので、現在ではその多くを葬儀業者が準備するのが一般的である。

しかし、葬儀業が普及する以前には、近隣の人々がさまざまな供物を持ち寄り、死者の枕元に供えていた。


枕飾りの一つとして、「守り刀」にあたる「枕刀(まくらがたな)」を枕元に置く習わしがある。地域や事情によっては、これを剃刀で代用することもある。枕刀は、死者があの世へ旅立つ際に、魔や災いから身を守る護身具とされており、その霊的な意味合いから、古くから葬送の作法のひとつとして受け継がれてきた。

枕飾りを行う際は、まず遺体の頭が北を向くように「枕直し」をするのが習わしである。


永眠したその夜、遺体を見守りながら遺族や近親者だけで静かに最後の別れをするのが「内通夜(うちつや)」であり、翌日以降に友人・知人・近隣の人々が集まり、故人を偲ぶのが「本通夜(ほんつや)」である。かつては、夜通し遺体を見守りながら、飲食をともにするのが一般的であった。


家族が亡くなると、遺族は深い悲しみに暮れる間もなく、葬儀の準備に取りかかる。まず最初に、葬儀の主宰者(葬主)と世話役を決めるのが通例である。弔問へのお礼は、以前は後日、はがきを送って行われるのが慣例だった。


また、古くから「死者は冥土へ旅立つと、閻魔によって七日ごとに七回の審判を受ける」と信じられてきた。中でも、五回目と七回目の審判が最も重要とされ、この五回目(亡くなってから三十五日目)と七回目(四十九日目)には、それぞれ法要が営まれる。


故人が生前に身につけていた品々を遺族や友人、知人、弟子たちに分け与える「形見分け」も、古くから続く習慣であり、精神的な意味合いが強い。


墓参りの習慣は、故人の命日や三十五日、四十九日などの法要の節目に墓を訪れて供養することから始まった。特に墓参りが広まったのは江戸時代である。当時、女性たちはさまざまな社会的制約のもとで家庭にとどまることを強いられていたが、先祖供養を名目に外出することが許されていた。神社への参拝(神詣)と同様、「墓参りに行く」と言えば咎められることはなく、女性たちはこれを口実に、外出や社交の機会として活用していたのである。




苗族の葬送儀礼(貴州省凱里市舟渓鎮・黄金寨)


 苗族の間では、人が六十歳を迎えると、あらかじめ自らの棺桶と寿衣(死後に着せる衣服)を準備しておくという風習がある。老人が病に伏すと、家族は付き添って慎重に看病し、息を引き取る直前には必ず堂屋(家の正面にある広間)へ移す。そして、死去と同時に遺体の身支度を整え、寿衣を着せ、霊床(死者を一時的に安置するための床)に寝かせる。


葬儀は季節によって異なり、夏季は棺を一日だけ自宅に安置し、冬季は三日二晩にわたって安置するのが習わしである。一日目には親族や友人、客人たちから「弔言」(お悔やみの言葉)を受け、それが終わると遺体を棺に納める(入棺)儀式が行われる。


二日目には「指路(しろ)」と呼ばれる儀式が行われる。これは巫師(シャーマン)を招いて、死者の魂を東方へ送り出すもので、一定の巫詞(呪文)を唱えて魂の進むべき方向を指し示し、旅立ちを導く。巫詞には「故郷は東にある。魂よ東に行け」といった内容が含まれ、死者の魂が正しく冥界へ向かえるよう祈願する。


続いて行われるのが「開路(かいろ)」の儀式である。これは、死者が冥界へと向かう途中にある険しい道の障害を取り除き、安全に旅を進められるようにするための儀式である。巫師は特別な道具を用いながら、呪文を唱えつつ、道を清め、障害を祓う動作を繰り返す。開路の儀式には、死者の魂が迷うことなく冥界にたどり着くよう、また途中で悪霊に妨げられぬようにという家族の願いが込められた、重要な儀礼である。


苗族の人々は、遺体を墓へ運ぶことを「上山(山へ上る)」と称している。これは、多くの墓が山の斜面にあることに由来していると考えられる。

儀式は、まず巫師が一本の刀を振るって「去邪除悪(邪を払い悪を除く)」を行い、それに続いて一行が進む。棺は息子たちによって担がれ、長男は死者の魂(陰魂)を遮り守るため、棺に傘をかざす。長女は昼間であっても松明(たいまつ)を持ち、道を照らしながら進む。

このとき、葬送の歌はうたわず、人々はただ声を上げて哭き、紙銭を撒きながら墓へと向かう。墓地にはあらかじめ穴が掘られており、棺が到着すると、もう一度棺の蓋を開けて遺体を整えるなど、最後の別れを済ませてから埋葬が行われる。

埋葬の三日後には「復山」と呼ばれる儀礼があり、再び山へ赴いて墓に土を加える習わしとなっている。


葬送期間中、葬家では毎日会食の場が設けられるか、あるいは「上山」から五、六日以内に、家族が一堂に会して互いを慰め合うとされている。

死後三年間は、毎年、清明節と春節に墓参りを行い、三年が過ぎると墓に石碑を建て、息子たちがそれぞれ自らの名を刻む。また、その際には卵を食べる習慣がある。

四月初めの清明節には、新しい墓・古い墓を問わず、必ず墓参りを行い、糯米飯(もちごめめし)・豚肉・酒を携えて墓前に供え、その場で親族がともに食事をするという。



葬儀における文化的共通性と違い


 日本の葬儀は、仏教の伝来以降、因果応報や地獄審判の思想と結びついて発展してきたが、それ以前から日本固有の葬送儀礼が存在していたと考えられている。今日の葬儀にも、その古い習俗の痕跡が随所に残されている。


一方、苗族の葬儀もまた、外来の文化に影響を受けながらも独自の発展を遂げており、とりわけ祖先を丁重に祀る姿勢が文化の根幹を成している。


たとえば、日本と苗族の両文化には、死者が亡くなるとすぐに遺体を洗い清めるという共通の習俗があるが、これは漢民族の葬儀には見られない特徴である。羅信耀氏が著した『北京風俗大全――城壁と胡同の市民生活志』(東京・平凡社 1988年)は、英字新聞「北京クロニクル」紙上に約1年間連載された『呉の冒険――北京人の一生』をもとにしたものである。原作は1940年に上巻、1941年に下巻として、北京クロニクル出版社から出版された。本書(P.327–P.335)には、「呉老人の死」という章があり、北京の典型的な漢民族葬儀では遺体を洗う習慣がなかったことが記されている。


日本と苗族のあいだに見られる、死後すぐに遺体を洗い清めるという共通の習慣は、単なる偶然ではなく、両者が共有する深層的な文化的基盤に起因すると考えられる。その背景を読み解く理論のひとつが、日本の文化人類学者・佐々木高明氏によって提唱された「照葉樹林文化論」である。


照葉樹林文化圏に属する地域では、焼畑農耕、発酵食品の利用、茶の飲用、そして葬送儀礼における清浄観念など、共通する文化的特徴が多く見られる。苗族や日本の山間部、台湾の原住民文化にもこうした要素が確認されており、死者を清めて送り出すという葬送観も、この文化圏に根づいた価値観の一つといえるだろう。




祖先祭祀――「お盆」と「鼓社節」


 日本には、祖先の霊を迎えて供養する「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、通称「お盆」と呼ばれる伝統行事がある。本来は旧暦7月15日前後に行われていたが、明治期に新暦が導入されて以降、多くの地域では農繁期を避けるために、新暦の8月15日を中心とする「月遅れ盆」が主流となった。


お盆は通常、8月13日から16日までの4日間行われる。13日には「迎え火」を焚いて祖霊を迎え入れ、室内には位牌を安置した「盆棚(精霊棚)」を設け、野菜や果物、菓子などを供える。この初日は「宵盆」あるいは「迎え盆」と呼ばれ、祖先を現世に招き入れる儀式である。


祖霊はまず空から降りて山にとどまり、そこから迎え火や灯籠の光を道しるべとして各家にやってくると信じられている。また、茄子や胡瓜を牛馬に見立てて飾る風習は、祖霊の乗り物としての役割を象徴している。


期間中、僧侶を招いて読経を行い、家族で墓参りをするのが一般的である。供物には団子、そうめん、果物などが用いられ、仏教の戒律に従い、肉や魚を慎む地域もある。ただし、地域差があり、両親が健在であれば生臭物を食べてもよいとする例や、年老いた親に魚を食べさせる風習も残っている。


16日には「送り火」を焚き、祖霊を再びあの世へと送り返す。供え物を川や海に流す「精霊流し」「灯籠流し」などの風習もあり、霊の旅立ちを祈念する儀礼として定着している。


このように、お盆は「迎え」「もてなし」「送り」という循環構造を持つ祖霊祭祀であり、日本独自の精神文化が色濃く反映されている。この点において、日本のお盆と苗族の「鼓社節(こしゃせつ)」には共通の精神文化が見られる。



鼓社節――苗族における祖霊と鼓の儀礼


 苗族の「鼓社節(こしゃせつ)」という祭りは、3年に一度、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)の年に行われる一連の祖霊祭祀である。儀式は、子年の秋に始まり、寅年に至るまで3年間にわたる長大な周期を持つ。


最初の年――すなわち子年の秋、「吃新節(きっしんせつ)」の日には、「醒鼓(せいこ)」と呼ばれる神聖な儀式が執り行われる。これは、祖霊の宿る「鼓(つづみ)」を目覚めさせるための重要な祭儀である。

儀式は、祭司である「鼓頭(ことう)」の家を起点に、村人が糯米(もちごめ)と酒麹を持ち寄り、酒を仕込む。この酒がうまく発酵すれば、それは祖霊が供物を受け取った証とされる。 


続いて川で捕らえた魚を酒とともに、十三年前に作られ神聖な状態で保管されてきた「祖鼓」に供え、蘆笙(ろしょう)を吹き鳴らしながら「醒鼓詞(せいこし)」という呪詞を唱え、霊を呼び覚ます。


次に、子年の旧暦10月の「子の日」に、「拉鼓(らこ)」と呼ばれる儀礼が行われる。この日は、鼓社の中心となる「最社(さいしゃ)」に、老若男女が集まり、糯米飯、米酒、煮魚、鶏、アヒルなどの供物を携えて奉納する。


日が「子の刻」(深夜0時)を迎えると、「祭師(さいし)」と「副祭師」が「鼓頭(ことう)」の家を出発し、一行を率いて行列を組み、あらかじめ選定された樹木のもとへと向かう。そこではまず、木を伐る許しを乞うために、祈りの詞(ことば)を厳かにを唱える。その後、木の根元で竹の卦(うら/占い)を行い、吉兆が示されれば、地面に米を撒き、鶏とアヒルを屠って、その血を木の幹に塗りつける。


さらに、フジヅルをその木に巻きつけ、日の出の方向である東に向けて引っ張るような形をとった後、祭師がその木に斧を入れる。伐り倒された「鼓樹(こじゅ)」は二つに割られ、蘆笙の音が響きわたるなか、村の境にある「鼓坪(こへい)」へと運ばれ、「鼓棚(こだな)」を設け安置される。


この「鼓樹」は香椿(こうちん)の木の上に載せられ、十六人編成の蘆笙楽団によって一節ずつリズミカルに演奏される中、両端から中央に向かって樹をくりぬいていく。最後には、牛の心臓に似せた形の「鼓心(こしん)」が木の中から彫り出される。


祭師はこの「鼓心」を手に捧げながら、人類の始祖とされる「蝴蝶媽々(フーディエ・マーマー)」の霊が、この鼓樹の中に安らかに宿ることを慎み深く祈念し、鼓心を「鼓頭」の家の神棚に納める。くりぬかれた鼓樹本体は丁寧に洗い清められ、杉の樹皮で両端を封じ、「停鼓祠(ていこし)」と呼ばれる社殿に安置される。


以後、この鼓は十三日に一度、「鼓頭」によって木の皮を軽く叩くという形式で祈りが捧げられ、祖先の霊を目覚めさせ続ける。そして、次の丑年に斎行される大祭の際に、古い鼓と新しい鼓とが交代されることになるのである。


丑年の二年目を迎えると、旧暦十月の最初の丑の日から十三日間にわたって大祭が執り行われる。初日には蘆笙の音がにぎやかに吹き鳴らされ、人々は酒食を囲みながら、祭りの始まりを盛大に祝う。


翌朝、「鼓頭」は助手および各家の戸主とともに「停鼓祠」へ赴き、鶏やアヒルを屠って供え物とし、鼓を打ちながら祖先の霊を呼び覚ます。このとき、前回の鼓社節以降に亡くなった氏族のすべての故人の名が、一人ずつ読み上げられる。


「鼓主(こしゅ)」および各戸の戸主は、祖先の神霊とともに供物を囲み、共に食事をすることで、祖霊との絆を確認する。その後、古い鼓は村の共有地である「祭鼓田(さいこでん)」の中央に安置され、改めて供物が捧げられる。これにより、古い鼓は正式に役割を終え、古い祖霊たちが鼓を後輩の死者に譲り渡し、後神が先神の役割を引き継ぐという儀礼的な交代が行われるのである。


続く日には、祖先の霊を新たな鼓に正式に鎮め祀る重要な儀式「引鼓(いんこ)」が執り行われる。この儀式では、村から約五百メートル離れた場所にある大きな楠(くすのき)——祖先の霊魂が宿るとされる聖木——のもとまで赴き、そこから霊魂を鼓へと導き入れのである。


苗族の伝承によれば、祖先の霊はこの楠を通じて天と地のあいだを往来していると信じられており、そのため、この樹の下で霊を丁重に迎え、村へと導き入れる。このようにして、新たな鼓に祖霊が宿り、以降の一年を村と共に過ごすことになる。


祖先の霊を迎えた翌日には、牛を供犠として捧げ、祖先を祀る祭祀が行われる。供犠は香椿の木のそばで執り行われ、牛を屠って心臓を取り出し、祖先への供物とする。その後、死者が生前に暮らしていた住居を縮小・簡素化した霊房を、「祭鼓田(さいこでん)」と呼ばれる場所に建てる儀式が行われる。こうして、丑年の十三日間にわたって続いた一連の祭礼は幕を閉じる。


鼓社節の三年目、寅年には「送鼓」の儀式が行われる。その後、「鼓」は「鼓頭」の家の中に安置され、祖先の霊を故郷へ送り返す行事が始まる。続いて、人間に災いをもたらす悪霊を祓い、新たに祀られなかった魂を封じた「山鼓」を、山中の洞窟へと送り返す儀式が執り行われる。


最後に、清めの儀式である「洗鼓(せんこ)」が、辰の日または巳の日を選んで実施される。辰の日の夜には、「祭師」が供物を捧げ、祖先の霊が無事に故郷へ帰還したこと、悪霊が道端に葬られ、再び災いをもたらさないこと、そして龍が降臨してすべてを清めてくれるよう祈願する。こうして、長きにわたる一連の祭祀は締めくくられる。



苗族の鼓社節には、まさに彼らの世界観が凝縮されているといえる。一方、日本の「お盆」もまた、伝統的な精神文化の一側面を反映している。


苗族の世界観では、祖先の霊は樹木を媒介に、天上や東方から招かれてこの世に降り立ち、牛によって迎えられ、鶏によって送られるとされている。そして祭祀の終わりとともに、祖先の霊は元の世界へと帰っていく。


日本においても、祖先の霊は消滅せず、一定の時期にこの世に戻ってくると信じられている。人々は迎え火を焚き、茄子や胡瓜で作った牛馬を霊の乗り物と見立てて祖先を迎え、高い山から空を越えてやって来る祖霊を丁重にもてなす。そして祭りの終わりには送り火を焚いて、再び彼岸へと見送るのである。


苗族において、祖先と現世の人々との間を媒介するのは、牛や鶏といった動物、鳥類、さらには樹木であり、それらとともに祭具として重要な役割を担うのが「鼓」である。「鼓」は霊魂の宿る器とされ、霊はその中を出入りすると信じられている。鼓の音は、霊魂を呼び覚ましたり、活性化させたり、あるいは鎮めたりする力を持つと考えられている。


一方の日本では、火や植物で作られた牛馬を媒介とするが、これは原始的な祭祀の名残であるとされ、かつては実際の牛や馬などの動物を用いて祖先を祀っていた可能性もあると考えられている。




あとがき


 日本は多様で豊かな文化を有する国であり、日本人は古くから、外来の優れた文化を柔軟に受け入れ、自らの風土に合わせて巧みに取り入れてきました。その一方で、古くからの風習や生活様式も、今日まで連綿と受け継がれています。とくに交通の便が限られる山間部などでは、伝統的な習俗がより色濃く残されており、日本文化の原形を垣間見ることができます。 


しかし近代化の進展とともに、こうした民俗文化は徐々に姿を消しつつあります。それでもなお、日本文化に深い関心を寄せる人々によって、民俗資料の収集・整理・研究が精力的に進められており、現代においても、日本文化の成り立ちや他文化との関係性に関する専門的な研究が活発に行われています。


本稿の冒頭で触れた柳田国男氏をはじめ、「照葉樹林文化論」を提唱した中尾佐助氏や佐々木高明氏など、優れた研究者たちが、日本文化の起源について多角的に考察してきました。


日本語を学ぶ学生として、私自身も日本文化、なかでもその形成の背景に強い関心を抱いています。日本文化の起源に関するさまざまな説の中には、私が暮らす中国・貴州省との関連を示唆するものもあります。


貴州は少数民族が多く暮らす地域であり、日常生活のなかで苗族をはじめとする多様な民族の風俗や習慣に触れる機会があります。また、旅行会社での実習を通じて数多くの少数民族の村を訪ね、現地の暮らしや祭礼に直接触れることができました。さらに、苗族文化に関する文献を読み重ねていくうちに、日本文化と苗族文化のあいだに、何らかの共通性やつながりがあるのではないかという思いが強まっていきました。


本稿では、昔話や年中行事、祖先祭祀、宗教儀礼など、両文化に見られる類似点を取り上げながら、両者の文化的共通基盤を探ることを試みました。もちろん、歴史の展開や社会の変化によって、それぞれの文化は独自の発展を遂げており、異なる側面も多く存在します。それでもなお、日本と苗族が共に持つ文化的な基層には、驚くほどの親近性が見られると感じています。


実際、この分野では多くの日本人研究者が精力的に研究を進めており、とくに中尾佐助氏が1966年に著した『栽培植物と農耕の起源』で提唱した「照葉樹林文化論」は、従来の日本文化起源論とは異なる視座から、日本文化を照らし出しました。その後、佐々木高明氏や上山春平氏らがこの学説を発展させ、多くの著作を残しています。


照葉樹林文化論によれば、ヒマラヤ山脈南麓からアッサム、東南アジア北部の山岳地帯、雲南高原、揚子江流域を経て、日本の南西部に至る広大な地域には、光沢のある常緑広葉樹(照葉樹)を主体とした森林帯が広がっています。この地域には多くの民族が暮らし、彼らの生活文化には以下のような共通点が見られます。


たとえば、野生のイモ類や堅果類のアク抜き、茶葉の加工と飲用、繭からの絹糸の製造、漆器づくり、柑橘類やシソ類の利用、麹を使った酒の醸造、雑穀を栽培する焼畑農耕、そして粘り気の強い食品「モチ」の存在などです。


これらの文化要素は、日本の伝統的な民俗にも色濃く刻まれており、日本文化の根底に照葉樹林文化の影響が深く関わっていることが明らかになりつつあります。私自身、これまでの経験と観察を通じて、この照葉樹林文化論の示す視点に大きな説得力を感じています。


本稿では、こうした文化的背景を踏まえつつ、貴州省に暮らす苗族と日本の伝統文化を比較し、それぞれの文化に共通する要素や類似点について考察しました。


とはいえ、本稿にはまだ未熟な点も多く、私自身の個人的な体験や見聞をもとにした記述が中心であるため、普遍性に欠ける部分もあるかもしれません。読者の皆様には、その点をご理解いただき、もしご意見やご助言をいただけるのであれば、大変ありがたく存じます。


 最後になりますが、本稿の執筆に際し、日本語科の曾士才先生、吉岡幹浩先生をはじめとする諸先生方に多大なるご指導・ご助力を賜りましたことに、心より感謝申し上げます。



参考文献


⚫︎加太こうし『シキタリがわかる便利雑学事典』日本実業出版社、1985年

⚫︎金子良子『貴州苗族の民俗と信仰』(出版社・刊行年不詳)

⚫︎桑田忠親『物語日本史』偕成社、1978年

⚫︎佐々木高明『照葉樹林文化の道――ブータン・雲南から日本へ』日本放送出版協会、1990年

⚫︎鈴木正崇『中国南部少数民族誌』三和書房、1985年

⚫︎土橋寛『歌掛け、文化圏の中の日本』(出版社・刊行年不詳)

⚫︎馬演 主編/君島久子 監訳『概説中国の少数民族』三省堂、1987年



口述情報・補足資料


⚫︎曾士才氏(苗族文化研究者)による口述記録。
 内容:「榜相」と「留相」は同一人物であり、「妹榜妹留」とされる/葬送儀礼において、通常は息子たちが棺を担がないことなど。